20世紀とは、「映画の世紀」でもあるわけです。
リュミエール兄弟によって世界初の映画である『工場の出口』が1895年に上映されてからおよそ100年以上、映画は20世紀の前夜から、20世紀突入後、そして、その20世紀の終焉までをともに歩みつつ映し出してきた、まさに「20世紀の生き証人」のようなメディアであったといっていいでしょう。
100年という時間を乗り越えた映画は、ついに20世紀をまたぐことにもなり、21世紀に突入した現在でも人々に愛されるメディアでありつづけています。
いま、私たちは、20世紀の映画を振り返りながら、21世紀の映画がどのように歩み始めているのか、ということを検証することが可能な時代に生きています。
映画というものは、時代の影響から逃れられない側面を持っており、映画に撮られることがなかったならば消えてしまっていたであろう光景や、その時代ごとの「いま」の細部をなまなましく映し出してきました。
それだけではないどころか、むしろ、「時代」というものが、そもそも「映画」によって影響されて動いてしまう、形成されてしまう、ということも多く経験してきました。
年代別に映画を見る、ということは、単に、ノスタルジックな趣味や同世代意識を喚起するばかりではなく、たとえば「70年代という時代がどのような時代だったのか」ということを、「70年代の映画」だけでなく、それと前後する様々な年代の映画と比較検証しながら、改めて見つめ直す契機でもあるわけです。
その年代に映画というものが何を撮ってしまったのか、映画という歴史の中でどのような作品が誕生したのか、どのような映画が多くの人に受け入れられてきたのかを知り、考えることは、そのまま、一つの時代に対する批評にもなりうるのです。
もちろん、ノスタルジックな趣味や同世代意識を喚起するためにする「年代別」の鑑賞が悪いといっているわけではありません。
そのようなノスタルジックな趣味を喚起する時代の「しるし」のようなものが画面に定着されていることや、同じ時代に生きていただけの共通点を持つ人間が、ある一つの映画について、世代が同じである、という一点のみで語り合えるという事実は、感動的ですらありますし、まさに、20世紀という時代に映画というメディアが人々に与えた影響や、映画が大衆文化として流通して生活の中に食い込んでいく浸透力を垣間見るようでもあります。
何も、同じ年代に撮影された映画をただ羅列することだけが、年代別に映画を見るということではありません。
もちろん、ある年代に撮られた映画をすべて鑑賞するという行為には、大きな意味がありますし、その限定された鑑賞から垣間見える一つの時代に関する考察は特筆に値するものの一つになるでしょう。
それに、カタログ化やアーカイブ化などからしか見えてこない共通点というのもありますから、地道な活動ではありますが、好き嫌いなどを排除して、ある年代の映画だけを見るということは、非常に重要な営みであるともいえます。
ある映画監督の作品を年代別に追う、ということも、年代別に映画を見る方法の一つといえるでしょう。
たとえば、ジャン=リュック・ゴダールとクリント・イーストウッドという二人の「同い年」の映画監督が、20世紀の半ばから21世紀の現在にいたるまで、映画とともに生きながら、どのような映画を撮影してきたのか、という足取りを追うことは、そのまま、「20世紀という映画の世紀」にまつわる様々な細部と関わりを持つ、途方もなく膨大な領域にまたがる思索の射程を与えてくれることになるでしょうし、その思索から、これからの映画についての新しい知見も芽生えてくるのではないかと思います。
「年代別」という区分に、さらに「ジャンル」や「地域」という絞り込みをかけてみるのも、年代別に映画を見る一つの試みとしてはよく知られたものですし、興味深いものが得られるでしょう。
たとえば、日本映画に限定をした「年代別」の映画と、ハリウッド映画に限定した「年代別」の映画では、同じ「70年代」という言葉であっても、その言葉に含まれる細部は全く違ったものになってきます。
「恋愛映画」というものに限定して「年代別」に映画を鑑賞するようなときは、時代によって「恋愛」という「決して自明ではない不自然なモチーフ」がどのように扱われてきたのかを知ることになるでしょうし、自分たちが現実のなかで行っている「恋愛」とされている行為が、いかにフィクショナルなものであるか、いかに映画というものに捏造され無意識のうちに再現してしまっているのか、ということを改めて知ることにもなるでしょう。
自分の知人が、「年代別」に映画の中の「爆発シーン」だけを集めて編集した「爆発の映画史」という映像を作って見せてくれたことがありましたが、「映画史」というのは、このように、自分自身で紡いでいくものなのだ、と感銘をうけた記憶があります。
映画を年代別で見る、ということは、自分で一つのパースペクティブを設定して、自分自身の映画史を編纂していく歴史家の仕事であるとも言えるわけです。
映画というのは時代の「いま」の細部をくまなく映し出すものでもありますから、時代の「意味」を読み取るのではなく、その細部に耽溺するようにして「年代別」に映画を楽しむことも可能です。
「年代別」に映画を鑑賞しながら、ある時代においてどのようなファッションが映されてきたのか、という細部を楽しむのも一興ですし、当たり前のように着ている服だったり整えている髪型などが、いかにして、スクリーン上のスターによってイメージを流通させられてきたのかがわかります。
当時の「いま」が現在の「いま」とどのように重なり合っているのかを、画面上の「細部」の肌触りとして実感し、意識的に現代に取り入れていくことも、年代別に映画を見る楽しみの一つといえるでしょう。
映画というのは、上映、再生されるたびに、つねに「新作」になりうるのですし、年代別に映画を観ることで、当時は発見されなかったある時代の「いま」を、現在の「いま」の地点から改めて発見することにもなるわけです。
「年代別」に映画を鑑賞するときは、当時の「いま」のドキュメントであると同時に、つねに目の前の「いま」という現象でもあるということ、そして、それぞれの「いま」は互いに影響しあうものである、という基本を忘れないようにすることが重要なのかもしれません。